安養寺山の麓に、聖武天皇の勅願により、東大寺の建立に尽力し、金勝寺を開基した良弁によって開基されました。当初は法相宗に属していましたが、承和元年(834年)太政大臣藤原良房の本願により、弘法大師こと空海が中興開基され、以後真言宗大本山大覚寺派の名刹として知られています。 安養寺には、弘法大師が作ったとされる愛染明王や大黒天などが残っています。
皇室の帰依も厚く、弘長3年(1262)に亀山天皇が諸堂を再建したと寺伝に記されています。その後、火災に遭いましたが、嘉元2年(1304)に復興しました。
長享元年(1487)、室町幕府と対立し、近江で力を誇っていた六角高頼氏を討伐に出陣した第9代将軍足利義尚が、栗東で最初に陣を構えたのが、安養寺でした。安養寺に入った義尚は、本格的に甲賀郡内の六角勢掃討に着手しましたが、長期化を予想した義尚は、手狭な安養寺を出て、上鈎にある永正寺に陣を置きました。この戦いの時に、六角勢の兵火にかかり、十二ヶ院などの建造物が焼失しました。
大永年間(1521〜1528)に再興されましたが、再び戦乱に呑みこまれてしまいます。元亀元年(1570)8月9日、織田信長が佐々木氏の残党と戦ったその兵火を浴びて、本堂・僧房などがことごとく焼け落ちました。
しかし、その戦火の中でも、本尊である薬師如来坐像(国指定重要文化財)は残ったのです。この薬師如来坐像は、奈良仏師の慶派の影響が色濃い作例で、運慶・快慶の次世代が活躍する鎌倉時代(13世紀前半〜中期)に作られたと考えられています。この坐像は、大きさはもとより、細部の表現など、栗東にある鎌倉彫刻の中でも屈指の作例であると言えます。貞享元年(1684)に京都から慧堅戒山が入山し再興し、その後、正徳元年(1711)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣に末永く天下安全の祈祷を修する旨命じられました。
薬師堂の前に、高さは4mの石造十三重塔が建っています。残念ながら、現在は第9・10・11層を欠く十重になっていますが、造られた鎌倉時代には十三重あったとされています。国の重要文化財に指定されています。
東方山安養寺で忘れてはいけないのが庭園です。池泉鑑賞式庭園になっており、琵琶湖をかたどった池がありますが、水が溜まるように池底が施工されたのは近年のことで、日照りが続けば干上がっていたところから、池庭式の彼山水と考えた方がよいかもしれません。この琵琶湖をかたどった池を中心に近江八景を象徴する石組が配された庭園で、県の名勝に指定されています。

仏像や庭園を拝観するには、300円の拝観料が必要です。(予約制)
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